【ガタカ】ジェロームの最期はなぜ?行動に至った理由や背景を詳細に考察

洋画

『ガタカ』はSF映画に対するイメージを変えた作品でもある

ジュード・ローが、かっこいいですね。

ストーリー展開は、「ちょっと無理があるんじゃないか」と感じる所もありますが、単純にいい話だと思いました。

前述した同時期のSF映画との「差異」にも関連するが、ここまで真摯に人生を肯定してくれる希望のSF映画は、非常に珍しい。『インターステラー』(14)や『ロスト・エモーション』(15)、『メッセージ』(16)等の「泣けるSF」という人気ジャンルを生み出したのは、ひょっとしたら本作ではないだろうか。

『ガタカ』を手掛けたアンドリュー・ニコルはCM監督出身で、本作が長編監督デビュー作。

主要キャストは本作をきっかけに結婚するイーサン・ホークとユマ・サーマン(現在は離婚)、ブレイク前のジュード・ロウ。

イーサンとユマの娘マヤ・ホークは2019年7月4日に配信開始されたNetflixドラマ『ストレンジャー・シングス』のシーズン3や『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』(19)に出演しており、全米公開時から22年という時の流れを感じさせる。

私が、この映画に惹かれた理由は、作品中のテーマの一つである「運命は変えられる」というところです。
映画を見る際には、好むとも好まざるとも、登場人物を自身にたとえることが、多々あるかと思います。

その点で、私はこの作品を見たときに「頑張れば運命を変えることが出来る」というエピソードを自分に言い聞かせ、これから生きていきたいと感じました。

そう遠くはない未来、人種差別は消え、それに代わって“遺伝子”差別が横行する社会になっていた。

DNAの操作によって生まれた「適正者」だけが優遇され、自然出産で生まれた人間は“神の子”と呼ばれ「不適正者」として最下層に位置付けられていた。
そんな中で、不適正者の青年ビンセントは、交通事故で半身不随になった超エリートの遺伝子を借りて、子どもの頃からの夢だった宇宙飛行士を目指すのだが……。

ビンセント役にイーサン・ホーク、重度の障害を持つエリートに当時ほとんど無名に近かったジュード・ロウを配し、監督・脚本もこれがデビュー作となるアンドリュー・ニコル(この翌年、彼は脚本家として『トゥルーマン・ショー』というメガ・ヒットを飛ばす。

もっとも、脚本自体を書き上げたのは、この『ガタカ』よりも『トゥルーマン・ショー』の方が先なのだが)。

アメリカで全く当たらず、日本でもひっそりと公開された作品だったが、数年を経たのちにジンワリと評価が高まり、今やカルト的な人気を博すまでのSFの“古典”へと登り詰めた映画だ。
この作品ほど年代によって評価が大きく割れる映画は、なかなかないだろう。

20代では絶賛が圧倒的多数で、30代でも8割がたが高評価、40代で肯定・否定が半々になり、50代以上では否定派が多数を占めるといったカンジでしょうか。

最近の映画で言うと、ペドロ・アルモドバル監督の代表作『トーク・トゥ・ハー』と全く逆の構造になっているような気がします。
20代におけるこの映画に対する評価は“異常”なほどに高い。そのほとんどの人々が、『ガタカ』が自分にとってどんなに大切な映画か、どれほど感動したか。

20代におけるこの作品の人気度は、いわゆる「感動作」の代表格である、あの『ニュー・シネマ・パラダイス』にも比肩し得るものなのかもしれない。
反対に上の世代の人々は、概ねこの映画には辛口だ。実は『ガタカ』が好きな年配者も意外と多いのではないかと推測するのだが、この映画を堂々と「好きだ」と言うことにある種の「照れ」というか、気恥ずかしさを覚えるようなタイプの映画であることは間違いないようである(もっともそれを逆手に取って、『ガタカ』が好きな自分を演じることによって、少年の心を忘れない、少年の瞳をしたオトナをアピールするオヤジが多数存在することもまた悲しい事実である)。

一番物足りなく感じるのは、「両親」の描写を前半の一部を除いて、全くと言っていいほど回避してしまった点だ。

もちろん若い頃(アンドリュー・ニコルが『ガタカ』の脚本を書いたのは、31歳か32歳だと思う)には「親」や「家族」について書くことは難しいのは当然で、僕も20代や30代の頃には敢えてそれを避けていたところがある(今でも決して得意ではない)。

恋人や友人など自分と理想や価値観を共有できる対象、すなわち自分にとって書きやすい、“安全な”対象のみに絞って物語を紡ぎ出してしまう傾向って物書きの誰にでもあると思う。

逆に20代なのに「家族の物語」なぞを老成した筆致で書き上げてしまうのは、素晴らしいことではあるけれど、そこには、やはりある種の「キモさ」が付き纏うだろう。
ただ、この『ガタカ』においては、そのテーマからいって、「両親」の描写は(この映画がより優れたものと成り得るために)不可欠なものであったと僕は思う。

なぜなら、ビンセントは両親が愛し合って生まれた文字通り“愛の結晶”であり、父や母の彼に対する想いには言葉にはできない深いものがあったはずだし、また、ビンセント自身の両親への想いにも愛や憎しみやそうしたさまざまな感情が入り混じった複雑なものがあったはずだし、そしてそれはこの映画が描くだけの価値が間違いなくあったはずのものなのだ。
また、ネタバレになるので具体的には言えないが、ラストの展開もあまりに安易なセンティメンタリズムに寄り掛かりすぎているように思う。

人間が生きるということ、死ぬということ、愛するということ、そういった極めて難しいが、作家・脚本家として描きがいがある素材に対して、真摯な“格闘”の痕が稀薄すぎるような気がしてならない。

もっとも、近年の邦画のヒット作の中には「生」や「死」についてあまりに薄っぺらいアプローチの脚本が多すぎて僕は辟易している(もちろん、若い人たちがそれに感動するのは間違ってはいない。僕も少年の頃なら感動していただろう。

問題は目先のマーケティングやコマーシャリズムに迎合して、「感動モノ」の粗製濫造を繰り返す、僕を含めた制作サイド、オトナたちの側にあるだろう)。

もちろんそういった低いレベルの描写ではないのだが、この作品は映画史を代表するような名作に成り得る可能性を持った素材であっただけに、僕にはなんとも惜しまれてならないのだ。
そんなこんなで、決してズバ抜けた完成度を持つわけではなく、むしろ脆弱で欠点の方が目立つような映画なのだが、僕はアンドリュー・ニコルの“若さ”から来ているこの作品の弱さ、傷つきやすさ、肩に力の入りすぎたストーリー展開、極端にデフォルメされた人物の造型、甘ったるいセンティメンタリズム、そうしたすべてを含めてこの映画を愛する。

それは、こうした欠陥を美質と感じさせるほどに『ガタカ』には、新しい映画、素晴らしい映画を創り出そうとする志の高さ、迸る情熱があふれんばかりに感じられるからだ。

そして、そんな純粋で、向こう見ずなエネルギーの発露こそが、僕がとうの昔に失くしてしまい、もう二度と取り戻すことのできない“若さ”の特権であることを、軽い胸の疼きとともに僕に想い起こさせてくれるせいなのかもしれない。

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