『マッドマックス怒りのデス・ロード』と北斗の拳は、似ている??

洋画

往年のマッドマックスシリーズ

 

砦を奪取し、正義を取り戻したマックスと、自由に生きる権利を勝ち取ったフュリオサの別れは、ただ視線を交わし、小さくうなずくのみだ。
本作には、かつてのハリウッドの典型的なアクション映画にあるような、生き残った男女の抱擁やキスシーンなどは無い。

人間性を取り戻した二人は、男女の壁を超えて、人間として生きる同志として尊敬を払うのである。
その視線のやり取りには、何よりも熱い精神性が宿っている。

この、無言だが雄弁なシーンは、男女の性差にこだわらない、あたらしい世界を感じさせ、同時に、言語に頼らない「映画」という表現の本来の魅力をも取り戻している、『マッドマックス 怒りのデス・ロード』のラストシーンにふさわしいものになっている。

セロン演じるフュリオサのイメージが脳裏に焼き付いているため、配役変更には不安を抱える人も多いだろう。

しかし、ゾーイ・クラヴィッツの言葉の通り、大船に乗ったつもりでいたいところだ。

前作『マッドマックス 怒りのデス・ロード』では長年、主人公マックス役を務めてきたメル・ギブソンは続投せず、トム・ハーディに変更されている。重圧を乗り越えるだけでなく、ハーディは完璧な演技でマックスにさらなる深みを与え、ファンを納得させたのだ。

つまり、既に前例があるとも言えるわけで、「Oh what a day, what a lovely day!」と叫ぶ日もそう遠くはないかもしれない……。

アカデミー賞6部門受賞の快挙を遂げ、世界中を熱狂させた『マッドマックス 怒りのデス・ロード』が、究極のバージョンとなって帰ってきた!
『マッドマックス 怒りのデス・ロード <ブラック&クローム>エディション』はジョージ・ミラー監督が“本作のベスト・バージョン”と豪語する、まさに必見のバージョンだ。

その息をのむような映像は、本作の世界観をより美しく際立たせ、よりMAD<狂気>に満ちた本質に迫る、感性に響く芸術的作品となっている。
共鳴せよ、そして熱狂せよ。

BLACK&CHROME<ブラック&クローム>に染まれ!

映画の発明者であるリュミエール兄弟によって撮られた、『ラ・シオタ駅への列車の到着』は、列車が前方に走ってくる様子を捉えただけの作品だが、映画というものを初めて見た観客や、慣れていない観客達は、この映像に驚き恐怖を感じたという。
『マッドマックス 怒りのデス・ロード』のクライマックスで、車両が爆発炎上し、前方に部品が飛んでくる表現は、おそらく『ラ・シオタ駅への列車の到着』を意識したものであろうし、製作側に、無声映画における価値観を復興させようという意志を感じさせるものだ。
また、いくつかの箇所で見られる、カクカクとした動きのコマ落とし表現や、突然モノクロ調になる演出からも、無声映画時代への意識を感じさせる。
これは、音声が入ることで失われてきた、本来の映画の美を復古するという、美術史でいうところの「ルネサンス」的運動とも呼べるだろう。
だから本作では、台詞を最小限にとどめ、登場人物の表情や身振り、凶悪に改造した山車のようなカスタムカーや、極度にカリカチュアライズされた悪役の造形、ギターや太鼓を叩くだけの異様な小隊などのアブノーマルなヴィジュアルを含め、 可能な限り視覚だけで事物を伝えようとするのであり、言語に変換されない、映像それ自体に心が動かされるのだ。
ちなみに、私が本作で最も気に入っているのが、口に燃料を含んで、排気口よりエンジン部へ吹きつけながら競争するシーンだ。
これは一応、ウォーボーイズが、トレーラーのタイヤをパンクさせるために前に出ようとし、トレーラーがそれを阻止するという意味が付与してあるのだが、途中から、もうそんなことはどうでもいいというような意地のスピード勝負に移行し、その瞬間は、もう何の意味もなく純粋に前へ前へ進んでいくふたつの車の勝負だけを描いている。

まさに、一作目のナイトライダーの、何の意味も無い疾走を見るようだ。この、意味から切り離された束の間の時間は、この映画の中で、映像それ自体が最も輝いた瞬間でもある。

モノクロ版のキッカケは、1981年に「マッドマックス2」の音楽作業中、レコーディングスタジオで安上がりなフィルムの複製として白黒のコピーを使った際、モノクロの本編を見たジョージ・ミラー監督が「この映画は白黒が一番だ」と感じたため。

「白黒で見ることによって映像はもっと抽象的になる」、「色の情報が少ないことでなぜか魅力的に見える」、「全体的にはいちばんいいバージョン」だという。

あわせて最新の予告編も公開した。

初めまして、往年のマッドマックスシリーズファンです。

まず、『マッドマックス2』で確立された、『駅馬車』を思わせる暴走アクションのアイコンそのものが作品のほとんどを占めているということ。
これはシリーズのファンへのサービスであると同時に、アクションシーンを描くことで様々なものを表現しようという挑戦であり、それはまた、映画自体を、映画の根源的な価値に立ち返らせるという試みにもなっている。

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